THE DAYSを見ました。
2010年つぼみ保育園が開園しました。もうすぐ1年になるという3月11日その時はやってきました。大きな揺れとニュースからの情報でとんでもない災害が起きたことを知り、これは泊まり込みになると思い食材の買い出しに走った。続々とお迎えに来る中で、迎えに来れない子供たちもおり、最終的に泊りになった子は8名ほど。塩結びとみそ汁で夕飯を取りお風呂に入れ、絵本を読んであげてから寝かせつけ。泣く子は一人もいなかった。職員一同子供たちの寝顔を眺めながら、なんで泣かなかったのか、なんでこんなにすんなり眠りについたのか、なんだか世の中で起こっている大きな出来事を感じ取っているような子供たちの姿に驚きを隠せなかった。そして無事寝付いてくれたことに安堵し感謝した。新宿から歩いて帰ってきたお母さんは夜中の12時前だった。ヒールを脱いで歩いてきたという。千葉から品川まで車で来てそこから歩いて帰ってきたお父さんは1時半だった。そして保育園の前の通りは、もっと遅くまで人通りが絶えなかった。トトロに目を止めて写真を撮る人もたくさんいた。これが震災当日のつぼみの様子。
以降、放射能の数値、風向きに気をつけながらの日々、テレビから聞こえてくる「直ちに影響はありません」と言う虚無的な声、東電と政府に不信感を持ち続けた日々。福島の現状を見ながらこれからどうなるだろうと思いながらも、計画停電や食糧不足など迫りくる生活の変化。大変だった記憶は10年もたつと大変だった思い出となってしまっている。あの当時感じていた危機感さえ薄らいでいる。
そんな時にTHE DAYSを見ました。
毎日テレビを見ながら見ていたはずなのに、津波被害にあわれ家を失った方々、放射能汚染によって避難を余儀なくされた方々、手放さなければならなかった家畜たち、あの当時見ていたのは流れてくる情報だけで、自分の生活を基準に眺めていたにすぎなかったのか・・。映像から伝わってくるものは息をすることも苦しくなるほどの現場の人たちの緊迫感だった。こんな大変な思いをしてくれていたんだ、死をも覚悟しながらも果たす責任感は想像に絶する。自分が感じたことなどの比ではなく、申し訳なさで自分が恥ずかしくなった。
いてもたってもいられず、今どうなっているのだろう、自分の目で確かめたくなって青森・岩手・宮城・福島と海沿いの街の復興状況を見てきました。
復興にかける思いはみな切実なもので住民が一丸となって頑張っているのが伝わってくる。人々は笑顔で優しい。そしてどの地域の人たちも災害を忘れてはいけない、伝えたいというのも伝わってきた。
車で走っていて沢山目にしたここまで津波が来たという警報、そしてここからここまでは津波で浸水したところという標識。高い防波堤で覆われて海の見えない海岸の町、毎日海を見ながら生活していた人たちは海が見えなくなった今、どう思っているのだろう、きっとさみしいのではないか‥そんなことを感じながら車を走らせた。
福島に入り、浪江町に近づくと今でも放射能の測定番が至る所にあり、0.1,0.2となっていた。当時からすると、かなり減ったのがわかる。しかし浪江町に入ると0.4になり大熊町には計測器は見当たらなかった。それがまた怖くもあった。車が走る国道47号線は帰宅困難地域が両脇にあるところを走る。一体ここは数値はどれほどなのか、横道はすべて立ち入り禁止なのだ。
その両脇から見る風景はつたに覆われた家、住人がいなくなった家の窓が割れたままになっていたり、屋根がつぶれていたり、まだまだ生々しさが残っていた。着の身着のままここを立ち去らなければならなかった人々のことを思うとやりきれない。家が町がさみしがっているように思えた。
チェルノブイリネックレスといって甲状腺がんになった子供たちが手術を受けて首に残る傷跡のことを言う。その子供たちもたくさんいた。今10年たって、そのころ子どもだった人が今になって甲状腺がんを宣告された人が浪江町、大熊町で280名もいるという。政府はそれを原発との関係と認めていない。
復興を願う気持ちと、もう帰れないという現実と福島の人たちの苦しみを現場で切に感じた。
それにしても美しすぎる、のどかな風景。なつかしさ、安堵感すら感じる山並み、街並み、原発事故さえなければどんなに素晴らしいところだったのか。
人々に希望を与え、仕事を与え支えとなっていた原発が、今は負の遺産となってしまった。原発で働いている人は今もたくさんいる。負の遺産を背負いながら。関東に運んでくる電気を作っていた福島原発、私たちは何もできない。命を懸けながら福島の現場の方々が担てくれている。
私たちに何ができるだろう。
計画停電の時に、真っ暗な道を、明かりのない道を歩いた。
電気のない中、ろうそくの明かりでテーブルを囲んで家族が顔を合わせた。
今までは、それぞれの時間を過ごしていた家族たちが一つ同じところで同じ時間を過ごした。それが、いい時間となったことも忘れられない。
あの頃みんなが口にした「電気いらないよね」
どれだけ無駄な電気を使っていたのか、夜中のスーパーやコンビニいらない、
余計なネオンもいらない、みんながそんな生活をしたら、これほどまで原発を立てる必要があったのか。
今や日本中沢山の原発だらけ。
どこで事故があってもおかしくないし、どこが事故にあっても再起できなくなる場所が出てきてしまう。
それなのに、再稼働と話が尽きない。
本当に良いのか?
黙っていていいのか?
子ども達に安心な日本を残すことができるのだろうか?
帰り道、高速に入って大熊町の計測器がたった一つあった。
数値が0・9だった。
今だ帰れる場所ではないのだ・・。
今回の旅は苦しかった。
しかし、また行きたいと思わせる豊かな自然の町だった。
すくっと高くたっている希望の一本松。
この松の姿に人々はどれだけ勇気づけられたのだろう。
希望をもって生きる力を与えてくれるために神様が残してくれたのかもしれない。
流されて生きるのではなく、子供たちに残していくための生き方を考えなければいけないのではないか?
そう思わせられた旅でした。
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